管理部 吉村厚美
今秋10月2日~11日の間、全国マーガリン製造協同組合の視察旅行に参加しました。昭和48年からスタートし当社でもかなりの社員が行っておりますが、前回の吉村社長が団長の時は、明確なテーマに適う旅先としてウクライナ・ロシアが選定されました。
調査視察が目的ですが、今年35回目となる視察の目的を初参加の私は最後まで聞けずじまいでしたが、選定地は南欧。団長は、丸和油脂の高橋会長、副団長は月島食品工業の戸田社長。参加人数は、明治油脂の進藤社長を始め9社14名でした。
10月2日夜半イタリアフィレンツェ着。所用の為、別便にて合流した私が存じ上げていたのは、副団長の戸田社長様だけでした。
フィレンツェ①
フィレンツェ②
翌日は、ポンテ・ヴェッキオ(フィレンツェ最古の橋)を渡り、ウフィッツイ美術館を見学。ルネサンス期に西欧諸国の中でも指折りの大富豪であり、フィレンツェの実質的支配者でもあったメディチ家。この美術館は、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ等々、かつて私達が教科書でその作品を知った多くの芸術家を支援したメディチ家がその終焉の時、所有の建物とそのコレクションを寄贈したのが始まりです。14~16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代文化を復興しようとした歴史的文化革命「ルネサンス」。一大叙事詩「神曲」を著わしたダンテは、この革命の先駆的役割を担うことになりましたが、彼はフィレンツェ出身の詩人でした。この稀有な歴史的都市フィレンツェの見学はこの美術館のみで、午後からは、フィレンツェ近郊のTenuta San Vito農園を訪問しました。森と湖に囲まれた丘陵に波打つように広がるオリーブと葡萄畑の面積は126ヘクタール。キャンティワインとは、ここトスカーナのフィレンツェとシエナの間で生産されるワインの総称で、この農園では葡萄は全て有機栽培し、白は2日間、赤は8~18日間発酵させた後、数ヶ月~2年間の熟成期間を経て年間18万本を出荷しているとの事です。葡萄の収穫は8月ですでに終わっていましたが、オリーブの収穫はあとひと月という時期でしたので、木々にびっしりと実ったオリーブに日光が降り注ぎ、今年の豊作を見学者の私達も実感しました。もっとも農園主の話では、近年の温暖化の影響で、収穫時期が年々早まっているらしいです。オリーブの油脂分は、酸化を防ぐ為、収穫後18時間以内にカットし遠心分離機で実と種を分離し、その実をさらに遠心分離機に掛け水と油に分離する方法で抽出されます。最後にオリーブオイルのテイスティングを行いましたが、かなり濃厚な味と香りが印象的でした。
翌4日は、北イタリアのボローニャ空港から空路ポルトガルのリスボンヘ飛びさらに乗り継いでポルトガル北部の都市ポルトまで、終日移動。
ボンジェズス教会
ラベーロ船
5日は、ポルト市内からバスで約1時間北上し、祈りの町ブラガへ。まず最初に訪れたのは、キリスト教の巡礼地ボンジェズス教会です。標高410mの斜面に1811年に建立されたネオクラシック様式と呼ばれる教会は、かなり冷え込んだ曇天の中、敬虔な信者達が引きも切らず祈りを捧げており、特にマリア信仰の強いお国柄を垣間見た思いでした。
その後ポルト市内に戻り、12世紀に建てられたサンフランシスコ教会を訪問した後、午後からはポルトワインを生産するサンデマンワイン工場を見学。ここポルトは、ポルトガル発祥の地であり、ポルトガル第二の都市。街を貫くドウロ河には美しいアーチ型の橋がいくつも架かり、昔はドウロ河上流で穫れた葡萄を運んでいたラベーロ船が今も数十隻繋がれ、河沿いには沢山のポルトワイン工場が立ち並んでいました。サンデマン工場は、イギリス人のジョージ・サンデマンによって1811年から操業。ポルトワインは、発酵の途中でアルコール分77度のブランデーを加え発酵を止めることによって糖度が分解されずに残っている甘みの強いアルコール度数の高いワインです。白は3年、赤は5年程樽で寝かせるそうですが、この工場の年間生産量は600万リッターです。工場見学後の試飲では、非常に飲み易く、かつて日本でよく出回っていた赤玉ポートワインの味を思い出しました。
アベイロ
6日は、空路で移動したリスボン~ポルト間をバスでひたすら南下する日程でした。ポルトから高速道路で移動し、運河とアズレイジョの町アベイロへ。ここは、塩田が多く製塩ではポルトガル一番の生産量を誇っている町です。バスの車窓からは、青い絵タイルのアズレイジョが町のいたるところで見受けられ異国情緒を誘いました。
コインブラ大学
その後、ポルトガルで最も古い歴史を誇るというコインブラ大学を訪れました。大学の前身はディニス王が1290年にリスボンに設立し、その後何度か移転の後、1537年に当時の国王であったジョアン三世がコインブラの自らの宮殿を差し出して造らせ、現在も2万人の学生が学ぶ国立大学です。敷地内にある旧大学図書館の蔵書は約30万冊。一番古い本は、16世紀に羊皮に書かれた神学や教会法などの宗教に関わる本だという事です。内装のいたる所に惜しげもなく金泥細工が施され、まるで宮殿のようなこの図書館を建設する為の財源は、大航海時代にブラジルから運ばれて来た年間150トンの黄金だったと言われています。
バターリャ修道院
再びバスに乗り込んだ私達は、コインブラからさらに90㎞程南下しバターリャに到着。世界遺産にも登録されているバターリャ修道院の正式名称は「勝利のサンタマリア修道院」。1385年バターリャ近郊で起こったアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国(スペイン)にポルトガル軍ジョアン一世が勝利した事を、聖母マリアに感謝する為に建立されたものです。殊の外見事なゴシック様式の修道院の中には礼拝堂もあり、ジョアン一世やエンリケ航海王子などの王家の人々の棺が数多く納められていました。当時、未知の海の彼方に乗り出して、それまでバラバラに存在していた地球上の全ての海洋を一つに結びつけ、大航海時代の先駆けとなったポルトガルの英雄達の志に思いを馳せながら、バターリャを後にし、夕闇に追い立てられるように今宵の宿泊地リスボンへと向かいました。
SCAL REGIONAL工場
7日も早々にバスに乗り込み、リスボン近郊のジャム工場を見学。リスボンから約1時間半程の距離にあるこのSCAL REGIONAL工場は、従業員が10名と小規模ですが、冷凍の原料は使用せず、工場の近くで穫れるフルーツや野菜を収穫時期に生のまま仕入れて生産しているとの事でした。私達が訪問した時は丁度、地元で収穫された大型のかぼちゃをカットしているところでした。トマトやメロンやアパガシなど生産しているジャムは数十種で、果肉分は45~55%、糖度は65度で日本のジャムよりやや甘いように感じました。見学の説明をしてくれた生産管理の若い女性が「日本からの初めての見学者なので写真を撮って下さい。」と自ら申し出があり、最後に全員で写真撮影をしました。
午後からは市内に戻り、首都リスボンでは見逃せない観光スポットを見て歩きました。リスボンは、別名「7つの丘の街」と言われるほど坂が多く、街中のいたる所を市電やケーブルカーが登り下りしていますが、日本と縁の深いイエズス会の拠点「サン・ロケ教会」も坂の上にありました。1584年に日本から派遣された天正遣欧少年使節団もこの教会を宿舎としたそうです。
再度バスに乗り込み、いよいよポルトガルが世界に誇る世界遺産「ジェロニモス修道院」のあるベレン地区に向かいました。ジェロニモス修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及びエンリケ航海王子の偉業を称え1502年に着工。その後、度々の中断もあり300年以上を費やしてようやく完成しました。西側の門から入場すると、55m四方の回廊に囲まれた広々とした中庭が目に飛び込んできます。又、四方それぞれの回廊の天井や壁には天球儀のモチーフが彫られ美しい絵タイルもはめ込まれていました。隣接する聖母マリアを讃える「サンタナ・マリア教会」には、ポルトガル文学史上最大の詩人ルイス・デ・カモンイスの棺と共に、ヴァスコ・ダ・ガマが埋葬されています。精密な手の混んだステンドグラスを通り抜けた淡い光が、マヌエル様式の彫刻で埋め尽くされた天井や壁に囲まれた聖母マリアを照らし出していました。しかし、その目線の先はるか頭上には、今まさに磔となったキリストが血を流し、訪れるひとりひとりが死の恐怖と苦しみを我が身として実感せざるを得ないような、磔刑のキリスト像がありました。
ベルンの塔
ベレン地区には、もう一つの世界遺産1519年に完成した「ベルンの塔」があります。リスボン市街から大西洋に流れるテージョ河を行き交う船の監視や敵国の襲来をいち早く発見し河口を守る要塞として建設されました。そのベルンの塔のすぐそばには、大航海時代を導いたエンリケ航海王子の没後500年を記念した高さ52mの発見のモニュメントがあり、そのモニュメントの広場の敷石にはめ込まれた世界地図によると日本は、1541年ポルトガルによって発見されたようです。
大西洋を一望するテージョ河の岸壁に一時腰を掛け、遥かなる海原を渡って来た風に吹かれていると、世界史の年表上の出来事が現実の事だったと実感出来たように感じられました。往時に生きた人々の並々ならぬ野心と偉業を成し遂げたとてつもない勇気は、現在を生きるポルトガルの人々にも多大なる活力となっているように思われました。
ポルトガルには古くから、「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、ブラガは祈る。」という諺があるそうですが、今回はその全てを急ぎ足ではありましたが巡ることが出来、この機会を頂いた吉村社長に感謝致します。ありがとうございました。
カサ・バトリョ邸
8日は、今回の最後の訪問地スペインのバルセロナへと出発しました。夕刻にバルセロナ空港に到着しホテルにチェックイン後、初めて自由時間が取れたので、以前訪れた時に見逃したガウディが手がけた「カサ・バトリョ邸」を見学。忽ちガウディの世界に埋没しそうになりました。目抜き通りに面したこの邸宅を外から眺めただけでもあっと驚くようなデザインですが、世界遺産登録がされている地下室を備えた地上5階建のこの建物は、1906年にガウディによって改築された個人住宅です。屋根は丸く盛り上がりドラゴンの背中のようだとか、ファサードの石柱はドラゴンの骨を想起させ別名「骨の家」だとか言われていますが、室内に入ると建物の中央部分が吹き抜けになっていて、自然光が五層を貫き濃淡のある青いタイルに降り注ぎ、リビングの巨大な窓からは申し分のない光と風を取り込み、木々を配した落ち着いた中庭やバルセロナの街が一望出来る広い天井テラスなど、100年以上前の建物とは思えない程、現代人にとっても住み心地の良さを提供してくれるデザインだとしみじみ思いました。
CODORNIU①
CODORNIU②
9日は、1551年創業という長い歴史を持つスペインでも有数のワイナリーグループが経営するCODORNIUを訪問。バルセロナからバスで1時間程の郊外に位置し所有する葡萄畑の面積は2500ha。ここカタルーニャ地方は、地中海性気候で葡萄はもちろんオリーブやオレンジの栽培にも適しているとの事。モデルニスモ様式を具現している建造物として国の重要文化財にも指定されているCODORNIUのワイナリーは、起伏に富む葡萄畑の丘に建ち木々の緑にとけ込み素晴らしい景観を醸し出していました。ここで生産されているカバ(cava)と呼ばれるスパークリングワインの製法は、スティルワインに糖分と酵母を加え瓶内で二次発酵させて作られますが、カバとはラテン語で「洞窟」。CODORNIUのワイナリーは地下5層総延長30㎞の長い長い洞窟で、瓶内二次発酵中のワインが1億本貯蔵されているとの事。貯蔵期間は1~4年、最後にリキュールが加えられコルク栓をして出荷されます。CODORNIU社のカバの生産数量は年間4300万本、スペインの国内シェアは40%。メルシャンが日本向けに販売しているので、日本国内でも飲む事が出来、特に日本人にはロゼが人気だとか。あまりのスケールに圧倒されるようなワイナリーでした。
午後からはバルセロナ市街に戻り、世界中から観光客を集めるアントニオ・ガウディの建築群を見学。ガウディは、19世紀後半から20世紀初頭に当時欧州で興った新しい芸術運動モデルニスモ(アールヌーボー)期に、バルセロナで活躍したカタルーニャ出身の建築家です。まるで動物が蠢いているような建造物は、曲線に縁取られその細部は動植物の装飾で彩られています。「美しい形は構造的に安定している。構造は自然に学ばなければいけない。」というのが彼の持論。
まず、1890年に着工した繊維工場団地内に併設された教会を見学。資金難で未完に終わった教会は下部が現存しており、斜めに立つナツメヤシの木を模した柱は、もうすでにサグラダ・ファミリアを彷彿とさせます。
次に訪れたグエル公園は、実業家グエルとガウディの夢の詰まった自然と芸術に囲まれて暮らせる分譲住宅でしたが、当時としては先進すぎて住宅は2棟しか売れなかったようです。しかし、100年経った今でも一日中人が途絶える事がなく、公園を取り囲む色とりどりの陶片が埋め込まれた波打つようなベンチは、ここに住む人にも旅人にも居心地の良いベンチであり続ける事でしょう。
サグラダ・ファミリア①
サグラダ・ファミリア②
最後に彼の名を世に知らしめたサグラダ・ファミリアに向かいました。サグラダ・ファミリアとは、ここカタルーニャ語で「聖家族」を意味します。民間のカトリック団体「サン・ホセ教会」が、全て個人の寄付による贖罪教会として建設を計画したこの教会は、1882年から着工され、着工早々無名のガウディが二代目建築家として構想を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしました。彼の死後、建設続行が危ぶまれる時期もありましたが、その後の建築家達が彼の構想を推測し乍ら、現在も建設が行われています。かつて完成まで200年はかかると予想されていましたが、進捗は加速しているようで、ガウディ没後100周年目の2026年に完成すべく工事が行われているとの事です。私も2004年に訪れていたのでどこまで進んでいるかと期待していましたが期待を大きく超えて、内部はすばらしいステンドグラスがはめ込まれ、床もほとんど仕上がっていました。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサード、内陣、身廊などはほぼ完成していますが、イエスの栄光を表すメインファサードや18本建てられる予定の塔は10本が未完です。東ファサードの壁面にはイエスやマリア、ヨセフを象徴する彫刻が、又西ファサードには最後の晩餐から磔刑、キリストの昇天までの情景が克明に彫刻されています。そして、アントニオ・ガウディもここに眠っています。
今回、ポルトガル、スペインと教会をいくつも見学して来ましたが、何百年という気の遠くなるような歳月を費やして尚、困難をいくつも乗り越え建立しようという何世代にも渡る強い思いを持ち続ける事が、即ち個々人の贖罪の行為そのものだと思いました。
旅の最後の夜は、1992年のバルセロナオリンピックの時に整備された海辺のレストランで食事をし、スペインの思い出にと高橋団長が企画して頂いたフラメンコを鑑賞して、名残惜しいスペインを後にし帰途に着きました。
この度の視察旅行では、高橋団長、戸田副団長をはじめ御参加された各社の皆様には大変お気遣い頂き誠にありがとうございました。8日間ずっと行動を供にさせて頂き親睦を深める事が出来ました。このご縁を大切にしたいと思っております。
以上