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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年㉑「余談閑話Ⅱ(話は本筋から離れますが)」(令和6年12月15日号)

取締役社長 吉村 直樹 

一. 異母姉兄達
 直樹が大阪から遠く離れた北海道大学を目指した理由はいくつかある。その一つが、年の離れた親父(48年)が煙たかったからだ。小学生の頃、親父がPTAの会長を務めていた時(豊南小学校)、運動会で激励の挨拶をした。同級生が、あの人お爺ちゃん?と聞いた。返答することが出来なかった。躾も厳しくて、お父様、お母様と呼ばされた。親父のいる部屋の扉は、座って開け閉めさせられた。
 男と女では感じ方が違うのか、妹は特別の感情を持っていないようだ。中学になると、いつも勉強にかこつけて一緒に出掛けることは極端に少なくなったが、妹(満智子・監査役)はいつも一緒に出掛けた。後年ボクは北海道に八年半滞在することになるが、一時妹は親父の運転手を務めていた。
 直樹の在札が八年を過ぎた頃、お袋(百合子・元会長)が迎えに札幌へ来た。偶々お袋が親父(栄吉)に電話をしている場面に遭遇した。親父がお袋に何とか直樹を連れて帰れ、と指示している様子だった。
 これは意外だった。その頃、会社には七歳年上の異母兄 鵬一が勤めていた。小学六年まで同居していて、大学進学で上京した。その兄が会社を継げばいいと思っていた。直樹が帰阪し、マリンフードに入社するのに合わせて兄は身を引いた。話らしい話はしなかった。
 その後、二、三度言葉を交わす場面があったが、今年(令和六年)四月、鵬一さんの細君から他界の知らせの電話を頂いた。享年81歳だった。
 他に十九歳年上の義母姉 敦子が東京にいたのだが、丁度昨年(令和5年)八月九十二歳で他界した。栄吉の長女だが、東京暮らしが永く、直樹の札幌と大阪の中間地点と言うことで、往復の途次に立ち寄り、何回もお世話になった。最後に会ったのは、定かではないが、長男 英毅(ミダスキャピタル代表)が結婚する三~四年前だっただろうか?都内の料理屋で、敦子、敦子の長女陽子、英毅、直樹の四人で食事した。英毅の結婚式にも呼んだのだが、体調が思わしくなかったようで、陽子夫妻が代理出席してくれた。以前当社の研究部長を勤めた田辺興一さんは、異父兄だった。
 直樹が札幌から帰阪したのは二十七歳の時だった。すぐに主原料の精製食用油の大口仕入先工場に九ヶ月ほど勉強に出された。そして帰社し製造現場の研修に配属された。三ヶ月程で東京支店へ転勤を命じられた。東京で一年半勤務することになる。丁度大阪支店長だった木次氏(元専務)も同時に辞令交付(直樹は嘱託、木次氏は東京支店長)されたが、彼は痔の発病があり四か月遅れて着任した。(当時の東京支店は代々木で、すぐに参宮橋に移転)住まいは小田急経堂の2DKに二人暮らしだった。もちろん彼は結婚していたが、当面は単身で直樹と同居生活だった。
 この東京暮らしで直樹はマリンフードの営業活動を理解した。当時売上高は約20億円で、得意先の大半は外食、喫茶で業務用。他に学校給食と同業他社への僅かな下請け仕事。喫茶は焙煎ルートが主体で、その先は喫茶店だった。

二. チーズ事業
 研究開発は三~四名のスタッフが何かをやっていたが、主体はほとんど品質管理業務だった。それでも彼等が冷凍ホットケーキを開発・発売した。販売の主体である末端ユーザーの喫茶店には、持って来いの商材だった。次に冷凍ピザを発売するとの情報が東京支店に流れて来たが、いつまで経っても発売の気配がない。マリンフードはチーズ(プロセス)をやっているのだから、とりあえずピザ用ナチュラルシュレッドチーズだけでも出してくれ!と言うのが営業の悲鳴みたいなものだった。直樹が本社へ帰った折に、生産の三宅専務から、「どうなんだい?」と聞かれたことがある。東京が全国でもNo.1のビザ消費地だ。「出せば売れます」と即答した。専務はすぐに設備を導入した。
 それから四~五年、直樹が社長に就任したのは二年後だったが、東京は全国に先駆けてシュレッドチーズを売りまくった。他地区がそれに負けまいと追いかけた。今現在、シュレッドチーズ類(含むスティリーノ)の売上は昨年時点で一万八千t、一七〇億円で全売上の47%を占める。但し、発売時点ではピザ用だったが、現在は全ゆる料理メニューに使用されている。現在、業界シェア圧倒的(80%)でNo.1を占める植物性チーズ、スティリーノの開発躍進は、シュレッドチーズが無ければ有り得なかった。
 少し時代は遡るが、会社創立の昭和32年の四年後の昭和36年にチーズ事業に進出した。キッカケは同業(マーガリン)のR社が工場を火災で失い、昭和33年頃チーズ事業を初め、それが成功を収めつつあったことに由来するようだ。
 栄吉とR社の社長は同じ関西でマーガリンの繋がりがあり、親しく付き合っていた。その成功を横目で見ていた栄吉はR社がオーストラリアチーズを原料としていたので、じゃあうちはニュージーランドだ、と言うことになったのだと想像される。
 チーズを始めた翌年に、父は初めてN商社とニュージーランドを訪れた。NZデーリーボードへ表敬訪問も果たした。そのスピード感は見事だ。NZ側は好意の印に、国鳥でありマリンフードのプロセスチーズのブランドに採用したキーウィ鳥の剥製をプレゼントしてくれた。
 余談だが、現在キーウィ鳥の剥製は禁止され、その貴重な一羽が弊社本社会議室を飾っている。
 さて、しかしチーズ事業は上手く行かなかった。家庭用大手の問屋に食い込んだり、学校給食に納入したりする場面もあったが、最大で年間500t(現在一万七千t内外で植物性を入れると二万五千t)レベルが限界で、直樹入社(昭和52~53年)の頃は、年間200t程度だった。役員会議がある度にチーズ事業撤退が議論されていた。
 直樹は食品としてのチーズが大好き(幾らでも食べられた)で、撤退議論の度に、もう少し頑張りましょう、と皆を説得した。その状態に風穴を開けたのが、「ピザ用シュレッドチーズ」だったことは、前段で書いた通りだ。
 少し後のことになるが、当社が順調に数量を伸ばしていた頃、業界最大手のY社は、原料ナチュラルチーズをシュレッドしただけの商品なんか、製品と言えないと、と嘯いた。こちらは、ごもっとも、と思いもしたが、兎も角売れるのだから突っ走った。数年後、Y社は「ナチュラルチーズ元年」と称して、大々的に参入して来た。

三. 父の死
 直樹が入社した頃(1977年)、父栄吉は入退院を繰り返していた。しかしそんな事に気を留めることなく、初めての一年半のマリンフード東京生活を満喫していた。
 当時の東京支店の陣容は、木次支店長、新井(業務嘱託、提携N社より出向)、H君(営業、後に広島営業所へ転勤)、I君(営業、退社、偶然高校時代の同級生)と女性事務員二人、そして直樹の七人体制。
 I君は毎晩のように得意先と麻雀。H君は小田急沿線で酒ばかり飲んでいた。出身は本社生産部第二仕上係だったが、何故か営業を志望していつもしゃきっとした背広を着ていた。細君は同じ第二仕上係出身。支店長は毎日曜日朝から晩までパチンコばかりやっていた。麻雀は弱いが、何故かパチンコは強者。いつも勝っていたようだ。新井さんは年配で温和な人だったが、油絵の趣味があった。知らなかったが、葬儀に参列して知った。二人の女性事務員は、いつもケンカしていた。そして年配の方が泣く。新井さんでは話にならないらしく、いつもボクに不満を訴えた。
 そしてボクは細君(現専務)と付き合い始めた。高校の五年後輩だが、丁度上京していて、劇団青年座の研究生になっていた。高校時代の演劇クラブの担任の鹿子嶋先生から、応援してあげなさい、と言われて観劇に行き、付き合いが始まった。彼女はその後松竹に入り、東京、名古屋、大阪の商業演劇の舞台に出ていたが、24歳で結婚を機に退団した。
 月下氷人の鹿子嶋女史は、元々奈良女子大出の歴史の教師だったが、30代半ば頃、かな道場の大家杉岡華邸翁に嫁がれた。華邸翁は2012年に逝去されたが、女史は2022年奈良の華邸美術館の館長として亡くなった。
 直樹は1979年初頭に帰阪した。五月に結婚を決めていたが、父(社長)の病状が思わしくなかった。吹田の国立循環器病センターに入院していたが、万が一の場合流石に結婚式を延期せざるを得ない。ヤキモキしながら推移を見守っていたが、ペースメーカー挿入の手術で奇跡的に回復し四月に退院した。予定通り五月の結婚式は行われ、父は挨拶を立派にこなしてくれた。
 新婚旅行から帰って来て落ち着いた八月、父はマリンフード社史の資料一式をボクに渡した。行李一杯の資料があった。父の社史取組みは進んでいなかった。難航の問題点は父の文学上の資料や事業に係る文章と、マリンフードの歩んで来た道の融合、統一にあると思われた。その旨を父に伝え、まず社史はさて置いて、文学関係と諸エッセイを一冊の本に纏める方針の了解を得た。仕事は急がれた。父の病状は不透明だった(結局この仕事は、父の死に一ヶ月間に合わなかった)。父他界の一ヶ月前に書名(空想屋右三郎)の了解を得て、出版された。

四. 東大文学部にプロジェクト発足
 前号にも書いたが、栄吉の死後45年後の今年2024年8月、東京大学文学部中国文学科内に「リエゾンプロジェクト『吉村栄吉の時代と人々』」が発足し、発表式を東大本郷近くの東天紅で行った。東大からは院生も含めて11名、吉村家からは4名の計15名の参加だった。次はその趣意書である。
「......吉村栄吉氏の歩みには、日本における中国文学研究が戦前から戦後にかけて向き合った、古典文学と現代文学の関係/中国文学と日本漢詩(迂斎・父の高祖父)の関係など、学問の核心を構成する問題が如実に表れている。」
「栄吉氏のご子息から貴重な史料の提供を受けられることになった。この機会に、人文社会系研究科の鈴木(教授)を中心として現代文学関係の業績と、中国文学研究室の歴史を整理する研究班と、総合文化研究科の田口(教授)、谷口(教授)を中心として江戸漢詩とその周辺の問題を整理する研究班を作り、吉村栄吉が活動した時代と、彼にまつわる人々の動向を総合的に研究したい。」我々には驚天動地の出来事だった。

(「創業130年」つづく)