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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑬「事業計画の始まり」(令和4年4月1日号)

取締役社長 吉村 直樹 

一. 創立25周年
 時期が前後するが、直樹が社長就任して2年後(1982年)、会社は創立25周年を迎えた。
 社内報は増頁してこれを祝った。


二. 25期~40期(1981年~1996年)

三. 低迷
 新社長就任(24期)の年の売上げが27億38百万円(前年比119.0%)、経常利益が1億63百万円(前年比146.0%)で、これは、売上げ利益共に過去最高であったが先代社長への弔い業績と言ってよい。
 その後業績は低迷が続く。6年後の昭和60年(30期)は売上げ29億40百万円(対24期比107.4%)、経常利益1億12百万円(同68.7%)だった。
 内部的に、営業マンは顧客訪問が少なく営業マン1人約40軒/月、新製品の開発は疎かで、製品クレームは頻発していた。何より全社の士気が衰えていた。最大の要因は社長だが、社長自身がそのことを理解していなかった。

四. 地獄の特訓
 丁度その頃(昭和60年~61年)偶然一倉定さんの社長セミナーを8回連続して聞いた。後年、「社長業の大家」と知るのだが、「郵便ポストの赤いのも全部社長の責任」という教えは、初めて聞く内容で衝撃的だった。昭和61年2月の「事業計画作成」と題した5日間の宮崎合宿セミナーが最終回だった。
 直樹は「運に恵まれている」、と自覚することが多いが、この時もそうだった。3ヶ月後の5月、偶然知った富士山の「地獄の特訓上級コース」に申し込んだ。この頃の精神状態は憶えていないが、余程会社の置かれている状況に危機意識を持っていたのは間違いない。

地獄の特訓メンバー

 「過去の栄光」という言葉があるが、全く無縁で生きて来た。体力に恵まれず、秀でた趣味を持っている訳でもない。北大に合格して学生生活は満喫したが、7年在籍して中退してしまった。
 ただ、3組45名で行ったこの11日間の合宿コースである5つのチェックポイント、「私の決意」「3日間暗記訓練」「中間テスト」「20km夜間行進」「卒業スピーチ」は特別。11日間で卒業したのは2名だけだったが、全ての関門をトップで通過した。突然現れた栄光に驚く。
 卒業に際し別れの文章を寄稿している。

「鉄砲水」(第89期生上級第1班)

 昨年の11月に、当社から初めて訓練に社員を派遣して以来、社長である私が早く行かないといけないなと思いながら、出来るなら行きたくないと迷っていました。
 迷いを断ち切るために社員の前で宣言し、年間の派遣スケジュールを決定、発表しました。
 今年の2月に、ある先生(一倉定)から経営に関する具体的な指針を学び、経営者の行動について、やらねばならぬことを学びました。それは私の過去のしてきた仕事、行動を大きく変える衝撃的なものでありました。
 私は過去の行動を深く反省し、新しい方針を持ちました。しかし、頭で解ることと、身体で理解する事は全く別のものでしょう。私は、頭で理解し決定したことを、揺らぐことのない血と肉にする必要があると思いました。何かでこの決意を強化しなければならない。
 上級訓練参加の決意は、すごくあっさりとしたものでした。その間の仕事の引きつぎや、仕事の上の問題も多く、新幹線が浜松を過ぎる頃まで、特訓のことを考える余裕もありませんでした。
 入校式で「私の決意」を喋べらされ、それが拒否された時、初めて私の頭の中が訓練に来ているのだと切りかわりました。
 「そうか、俺は今地獄の訓練に来ているんだ」
 訓練は目まぐるしく「何だこれは」「なる程なあ」「こんな正解は有りか」「本当に3台の電話は素早く3台ともに出るべきか」「酒の飲み方?」「カードで成績評価やるなんて無茶苦茶」「教える事は何もないなんて、よくまあ平気でそんな嘘が言えるなあ」「ずぶ濡れで商談するのはやっぱり失礼だ」。
 1つのテーマの迷路に入り込まないうちに次から次に新しいテーマが提出されて「会社で何やってんだ」「会社を潰すぞ」「君は何も解ってないくせにすぐ抽象的な言葉を使って、結局何もしない人間なんだ」「君の性格は解ったよ。あっはっはっは」「何回言ったら解るんだ。君のような人間がいるから会社に問題が絶えないんだよ」「どうしても現状と原因が解らないんだねえ」「こちらを見なさい。書かなくていいから、そんなことを書いたって仕方ないよ、そういう奴に限って仕事は全く出来ないんだ」
 次から次に毒矢が飛んで来て傷つき泣き、傷つき泣き、無言で涙。追いうちをかけるように「はっはっは、君は結局何も解らない人なんだねえ」。
「ではこれから歌の練習、これから体操、これから散歩訓練に入ります。1分以内に運動場へ集合、1分15秒、何してるんですか、もう一度訓練室へ戻って、点呼、気をつけ、礼、はい自分で採点して下さい。健康状態は何点ですか」。  全く11日間は鉄砲水が吹き出して、そしてやっとここまでたどり着きました。こんな体験は生涯初めてでした。ありがとう皆さん。さようなら皆さん。

 8回の「一倉セミナー」で社長の基本姿勢や具体的な行動を叩き込まれ、11日間の「地獄の特訓」でそれを血と肉にした。

五. 第1回事業計画書作成
 「一倉セミナー」と「地獄の特訓」の受講の順番が逆だったらと思うとぞっとする。まず「地獄の特訓」は1番で出られなかっただろうし、一倉セミナーの内容が血となり肉となったかどうか怪しい。特訓の戦友で35年後の今も年賀状をくれるのは1人だけになってしまったが、未だに当社の業績を追跡し賛嘆してくれる。
 同年(1986年)の9月から「事業計画書」の作成準備を始めた。形式や帳表の様式など決めて行く事は多い。既存の実績表、計画書の類のスクラップアンドビルドも膨大だ。最終型が見えないままの手探りだから、社員の協力も得にくい。5冊目ぐらいまでは全て自分でやった。別表の実績表だけは細君(現専務)の協力を仰いだ。発表会は毎年1月最終土曜日。原稿を印刷屋に渡すのは、10日頃。
 以来今日まで正月は戦場という状態が続いている。正月に旅行したのは1回だけ。それも京都だ。皆が初詣に行っている間、ホテルに籠って書き続けた。今ある「企業の道」はこの時書いたから平成9年(41期)だ。

六. 計画書冒頭の言葉
 最初の経営計画書(1987年1月)の冒頭に「経営計画発表にあたって」という文章を掲げている。
 「父が病没(1980年4月)し、社長を継いで今年の4月で7年になります。あっという間の7年でもあり、1つ1つの出来事を想い出すと気が遠くなる程の7年でもありました。

事業発展計画書

 会社も今年の3月で創立30周年を迎えます。この間、家庭用から業務用へ、マーガリンの他プロセスチーズ、シュレッドチーズ、ホットケーキなどの新製品の発表や新社屋(現本社本館)の建設など、時代の移りかわりに前後しながら、先輩諸兄の努力によりマリンフードの今日が築き上げられてきました。
 私が社長を継いだ時の正直な感想は「まずいことになった」といったようなことでした。仕事の経験も浅かったし、社長が何をすべきかについても何も知りませんでした。何より社長方針のもと全社を引っぱって行くバイタリティーが欠如していると自認していました。
 こんな社長に引きいられた従業員は何と不幸なことでしょうか。「勇将のもとに弱卒なし」と言いますが、弱将のもとで会社はどんなことになるのでしょうか。
 この数年、売り上げの伸び悩み、新製品の開発不足、商品クレームの増加、利益のじり貧傾向、同業者間の熾烈な競争などに直面し、苦悩の時間を過ごすことが多くなりましたが、これと言った妙手を見つけることが出来ぬまま時間が過ぎ去っていました。
 昨年2月、一倉定先生という「社長学」の権威者の講演を聴く機会を得、「社長がやるべきこと」について徹底的に従来の考えを改めさせられました。まさに脳天をハンマーで叩き割られるという程のショックでした。 以後、私の中の興奮が静まるのを待ち、講演の内容を吟味しつつ全8回にわたるセミナーを受講し「社長がやるべきこと」の実像に近づく努力を施行してまいりました。
 それらをまとめると同時に、従来発表したりしなかったりの経営目標を、より一層明確にかつ具体的に姿勢を改め、そして全社の意思統一を諮るために本経営計画書にして発表することにいたしました。(今後は毎年1月に発表し続けます)
 人にはそれぞれの運命があり環境があります。しかし、どんな境遇にあろうと、進歩、発展を望まない人はなく、進歩、発展は自分の手、我社の努力で掴む以外に道はありません。
 私は会社にいる人達が、将来への希望と、生活の安定を得、又会社の周辺に居住する人達が我社に愛着をおぼえ、何よりもお客様が我社との取り引きを喜んでもらえるよう尽力することが、与えられた使命であると自覚し、正しい公平な心でリーダーシップを発揮し、会社経営を行って行きます」。