取締役社長 吉村 直樹
一. 栄吉の余技「あじさい」
昭和37年 榮吉作
「わたしは売ト者というものに占ってもらったことがたった1度ある。それは今から30年ほど前(30歳過ぎ)、まだ父の石鹸工場に勤めていた時分、ある晩出先の名古屋の街角で何気なく1つの古机の前に立ったのである。その頃私は生活上ある行きづまりの感情から実業界に引続いて身をおくべきか、文学の世界に転身すべきか真剣に悩んでいた。そのことをいうと彼はしきりに筮竹を動かした末にいった。『あなたは両方ともおやりなさい。』この言葉を私は忘れることができない。大げさにいえば、私のその後の進路をきめてしまったのは、この後にも先にもただ一ぺんみてもらったみすぼらしい売ト者の一言であったともいえる」。
昭和33年・
池田ロータリークラブにて
更にそれから10年後、昭和44年豊中南クラブ設立と共に再移籍し、初代会長に任じられた(68歳)。次の文章は、その3ヶ月後の会報の文章である。「吾々の注意すべきことは、ロータリアンとしての誇りの意識は大事だが、エリート意識の過剰で、それが一般社会との断絶や、ジャーナリズムの対ロータリー背反の一原因を為していると思われることです。......日刊紙の記者諸氏の中には白眼を以てこれを眺め、ブルジョアの昼食会視するものが未だに殆どであります。
私たちはクラブの基本カラーを敢えてその庶民性に求めたいし、生産商業地帯の生気有るムードをクラブの基調にしたいと思うのです。......ロータリーは奉仕的行動を実践する間一髪のところに在るであろうし、そこに"aboveself(滅私)"の意味も有ろうかと思います。......今年度のコンウェイRI会長のターゲット"REVIEW and RENEW"(見直して出直せ)というのはよくぞ言ったと思います。」率直かつ冷徹な見解であろう。
二. その頃(昭和54年頃)のマリンフード
商品構成は定かではないが、マーガリン類がOEM品も含めて90%、チーズ類が7~8%、ホットケーキが2~3%と推定される。
販売先は、受託加工品先が30%で、自社販売先が70%、自社販売先の内訳は、外食業務用が90%、学給用10%、業務用マーガリンの80%(推定)を消費する製菓・製パンルートは0%(今日に至るもこれは変わらない)。今日販売シェア75%を占める家庭用は、当時0%だった。
外食業務用の販売先の大半(80%位)がコーヒーのロースター(焙煎業者)だった。
会社創立時、販売先は100%家庭用で代理店は野田喜商事(現三菱食品)1社だったが、この頃は代理店が九社に増えていた。家庭用販売は0に無くなっていた。
外食ルートは黎明期であったが、大きなレストランやホテルは敷居が高い。街の喫茶店のモーニングトーストに塗るマーガリンが、最大のターゲットになった。しかし、1件1件回る訳には行かない。ロースター(焙煎業者)にお願いする。そのロースターと取り引きしていたのが、グリーンと呼ばれる珈琲生豆の輸入商社で、これ等に代理店をお願いしていた。
当時、ロースターは全国に300社あると言われていたが、その内半分以上と取り引きがあった。コーヒーは常温だが、マーガリンは冷蔵だ。取り扱って貰うには冷蔵庫を用意しなければならなかった。1社ごと冷蔵庫を置いて回った。営業は毎日毎日コーヒー屋さんを回る日が続いた。
東部マリン会第4回総会
吉奈温泉東府屋旅館にて
S55.11.13
丁度新製品としてシュレッドチーズが投入された。元々冷凍ピザが開発される計画だったが、いつまで経っても販売されない。しびれを切らした営業から、チーズだけでもいいから発売してくれ、という声に押されて登場した。
この時、直樹は東京支店で営業に携わっていたが、漸く現れた新製品で熱気に溢れた。
シュレッドチーズ
(業務用1㎏)
その後、シュレッドチーズの成長は続き、マーガリンを追い抜く(平成7年・発売から18年後)。更に家庭用進出拡大の大黒柱にまで成長する。現在シュレッドを含めたチーズ全体の売上げは、全社の70%を超えるが、その成長の原動力であった。
三. 第23期(昭和54年1月1日~12月31日)事業報告書
「......当社の販売につきましては下記の通りであります。
(対前年度の伸び率)
自社マーク品 | 数量 | 金額 |
---|---|---|
マーガリン | 113% | 129% |
ホットケーキ | 121% | 125% |
受託加工品 | ||
マーガリンラード | 86% | 83% |
合計 | 103% | 109% |
......尚一段の飛躍を期する為昨年10月全国特約代理店オーナー会に加うるに全国代理店社長会(いつつわ会)を結成し、本年に開花致すべく努力する所存であります。」
この株主総会から20日後の4月14日に初代社長吉村栄吉社長が逝去した。
四. 吉村直樹常務第2代社長に就任
栄吉社長逝去の11日後に直樹が次期社長に選出された。しかしこの11日間に種々の思惑が渦巻いた。
当時の役員体制は専務が2人、三宅(生産担当)、熊谷(営業担当)。常務が直樹(管理・購買担当)、取締役に百合子(社長室担当)、松永(研究担当)、非常勤取締役相馬(植田製油専務)。
直樹が余りにも若い(30歳)し、まだ入社3年目と言うことで、2人の専務は三宅で統一されていた。百合子はガンとして先代社長の意向であると直樹を強く推した。松永、相馬は旗色を鮮明にしていなかった。状況は、直樹の意志にあると思われた。子供の頃から百合子は直樹の耳に、お父さんの次の社長になるんですよ、と囁いた。直樹はそれを無視して札幌に行き母の希望に逆らった。
栄吉逝去10日後の会議で、直樹が「私がやります」と宣言した。11日間の攻防が終わった。
1年後の株主総会の営業報告書(第24期・昭和55年1月1日~12月31日)である。初めて直樹が起草した。「当期は80年代の幕開きを象徴して、内外とも多彩な1年でありました。......この間にあって、4月14日に当社創立者である吉村栄吉社長の死去にあい、
中央:朝丘雪路、
左端:吉村専務、
左から2人目:井上監査役
この年(昭和56年)7月、神戸ポートアイランドのポートピアホテルで、200名のお客様を招待し、歌手朝丘雪路をゲストに迎え、社長就任披露パーティーを開催した。朝丘さんの第一声は「まぁ若い社長さん」だった。