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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑩「創立者 栄吉の死」(令和3年4月1日号)

取締役社長 吉村 直樹 

一. 提携
 前回(昭和42年~51年「ミルクマリンからマリンフードへ」)株主総会での営業報告書をもとに会社の概要を記したが、他に昭和42年にN油脂㈱と資本業務提携し、10月よりN油脂㈱関西工場の看板を掲げ同社向け製品の生産を開始した。しかし昭和44年に同社は尼崎に食用油脂工場を完成させ、その充実と共に委託数量は年を経ずして減少して行った。
 昭和46年2月には学校給食用小型マーガリン製造に関してY乳業と資本業務提携をした。その後昭和50年にU製油経由の受託事業の形となったが、延べ五十年に及ぶ長期に渡る継続事業であった。但し、日本のパン食学校給食用小型マーガリンは昭和47年をピークに減少の一途を辿り、最盛期の生産数量は7708トンだったが平成30年には875トンにまで減少した。
 結果いづれも提携は解消されることになった。

二. 直樹の青春

「鼠六匹」創刊号
(1974年8月)

この頃(昭和43年~昭和51年)、直樹は札幌で無頼の生活をしていた。大学が70年安保騒動で荒れる中、前半は演劇研究会に浸り、後半は小説家を目指した。昭和46年12月から翌年4月半ばには、大学を休学し、欧州放浪の旅に出た。そして昭和49年3月に北大理学部化学科を中退した。化学科の一年先輩に宇宙飛行士の毛利衛さんがいたはずだったが、たった四十人の小所帯の学科で修士号まで取られているのに、会ったことはなかった。毛利さんは、大学紛争が続くあの動乱の大学生活の中で、ぶれることなく研究生活に邁進された。驚嘆に値する。
 雀友村井俊朗君(経済学部・北海道アルバイト情報社社長)が声を掛けてくれて、月刊誌「鼠六匹」を創刊した。彼が資金を出してくれた。中退仲間だった。
 マリンフードから、故松永部長(後に常務)、永嶋部長(後に常務)、故熊谷部長(後に専務)が順に札幌にやって来て、早く大阪に帰ってらっしゃい、と説得したが、早々にお引き取り願った。
 最後に母親が来た。その時のいきさつを、経済界の同人誌といわれる「ほほづえ」(2019年春100号)に書いている。
「父が病で倒れた時、ボクは札幌で八年以上漂流していた。母が帰阪を促しに来た。ボクは北海道に骨を埋めると答えた。隣の寝具の中で、母は夜の11時から明け方五時まで泣き続けた。年の離れた異母姉にその話をすると、百合子さんの演技は一級品だと笑った。今ボクは、母に感謝の言葉しかない。」
 昭和51年8月帰阪後、9ヶ月程植田製油にお世話になった。翌52年5月にマリンフードに入社した。

三. 栄吉の喜寿と直樹の結婚

吉村栄吉 喜寿の祝宴
(1977年5月)

 昭和52年5月、栄吉は数えで77歳を迎え、親族や社員幹部、豊中市の名士の出席を得て、喜寿の祝宴を箕面観光ホテルで催した。
 同五月末には伊勢賢島で東西合同マリン会マリンフード特約店会)を挙行し、会社創立20周年と喜寿を祝って戴いた。現在本社事務所入口にあるブロンズ胸像(山中靖三作)と社長宅応接間に飾ってある油絵肖像(桑山哲舟作)は、その時贈られた。
 祝宴も終わり、落ち着きを取り戻した十二月に栄吉は再び発作で倒れるがすぐ回復。翌昭和53年7月、3回目の発作。更に翌昭和54年2月、4回目の発作で国立循環器病センターに入院。これはペースメーカー挿入の手術で見事に回復し、4月に退院した。

直樹・厚美結婚披露宴にて
(1979年5月)

 一方で直樹は、実は5月に結婚の話が進んでいた。そこへ降って湧いたような入院騒動であった。万が一の時は、流石に延期せざるを得ない。やきもきしながら推移を見守っていたが、なんと奇跡的に四月退院をした上に、結婚式にも無事出席、新郎の父として、しっかりした挨拶もこなしてくれた。会場は大阪ロイヤルホテル。新婦は高校の後輩大西厚子(改名して厚美)。厚子は当時東京青年座の俳優養成所を卒業し、松竹の女優になって梅田コマ、新宿コマなどに出演していたが、結婚を機に引退した。(直樹29歳、厚美24歳)

四. 栄吉の死
 直樹の結婚式に出席後、栄吉の体調はすこぶる良好で、10月には箱根、京都へ出張、11月には上田秘書の運転で和歌山那智の青岸渡寺(西国巡礼一番)に参拝もしている。
 しかし流石にそれが祟ったのか、年末に再び循環器病センターに入院した。
 年が明け、病状が幾分持ち直したのを機に退院し、自宅療養に入った。しばらく一進一退が続いたが、4月13日午前、肛部より出血があり、意識不明になった。午後になっても出血が止まらず、午後8時58分、自宅書斎で家族全員が見守る中で、最後の眠りについた。

栄吉葬儀
(1980年4月・本社工場にて)

 戒名は以前から自分で考えていたようで、手帳に記載されていた。
「工文院釈艸栄遊三居士」。
 死から一ヶ月後、直樹が父から託されていた原稿を編集した書物が完成した。次の文章はその編集後記である。
 「父栄吉は『吉村迂斎をめぐる人々・吉村又作伝』(マリンフード㈱社史第二編、昭和51年12月発行)の後記に次のように書いている。
 『...もし時が許すならば〔マリンフード㈱〕を(マリンフード㈱社史の)第三編として社史の完結を期し度い』。
 晩年の父の願いは、その完成しかなかった、と言って良い。しかし、体力は衰え、頭脳は不鮮明の度が進んでいた。仕事の難しさ、捗の行かなさ、根気の衰えに対する苛立ちを、しばしば家族に当たる事で解消しているところも多かった。マリンフード㈱の歩んで来た道と、栄吉の歩んで来た道の融合、統一にその困難さがあったと思われる。
 昨年(昭和54年)夏頃、父はその為の資料全てを私に渡した。
 昭和55年4月14日午後8時58分(死亡診断書には午後9時と記載されている)に、五年前に増築した書斎の六畳間で、主治医西本明文先生はじめ、家族全員に見守られながら、鬱血性心不全による身体衰弱で父は他界した、その日、私と母は父を入院させるべきかどうかについていささか口論していた。母の意見は自宅で死なせてあげたい、であり、私はもう一度入院させたい、であった。深夜集まって来た人達は、父の死顔を見て、ただ眠っているようにしか見えない、今にも起きて来るような気がする、と言いあった。納棺されるまで白布が父の死顔を被うことがなかった。丁度庭の中央にある梅が満開を誇り、その隣で枝垂れ桜が数日後の満開を楽しみにしていた。
...さて社史の方は、昨年秋、「栄吉作品集」と「マリンフード㈱」の二冊に分けることに決め、まず「栄吉作品集」の完成が急がれた。父の病状が思わしくなかった。(結局父は本書の完成を待たずして逝った。)

「空想屋右三郎」
(吉村栄吉著)

 父は会うたびに「本の方は進んでいるか」と私を責めたてた。「読むに耐える本が出来るか」とも聞いた。「今さらそんな事を言っても仕方がない」と答えると、父は嬉しそうに笑った。
 この一年近く、父と顔を合わせることは避けても、父の文章に接しない日はほとんどなかった。そして新しい文章に接するたびに、私の頭の中で父の像が右に左に揺れた。
 原稿の中に「空想屋の右三郎」と題した小説があった。本のタイトルに「空想屋右三郎」はどうか、と聞いた時、父は「そうか」と言って寝床で横になったまま少し笑っただけで、可否の返事はなかった。「あとがき」を書かなければいけないな、と言うこともあったが、結局その筆を執ることはなかった。
 この書物が「読むに耐える」本であるかどうかは今措くとして、およそ二十才の頃から他界するまでの約60年間に亙る、父の文章に対する夢と愛着は、それだけで私に迫って来るものがある。最後に至って本書完成の仕事は私に委ねたが、他界の数日前まで不自由な身体で書斎の整理を続けた。...。」