取締役社長 吉村 直樹
一.社名
昭和41、2年頃、公正取引委員会がマーガリンの名称でバターと紛らわしい物があり、可否の議論が起こって、その使用が禁じられることになった(昭和42年)。
初代社長栄吉の作品集「空想屋右三郎」にそれに関係する文章がある。
「......こんどの公取によるマーガリン表示の規正問題が起こってきて、○○バターはもちろん、バターリン、ミルクマリン、牛乳マーガリンもすべていけないという。......こんどの指示でミルクはいけないがラーマはいいそうである。......ラーマはオランダ語で牛乳の意味ときている。......また雪印はいかにもバターとも、ミルクとも字面では全く関係がない。しかし雪印という語は子供でもバターを連想する。日本では雪印はほとんどバターの同義語になっているのではあるまいか。......しかしこの両社だけで来年度において、日本全体の家庭用マーガリンの、75%以上を占めると思われる。......『ミルクマリン』は厳しい審査を経、全く何らの情実もなしに法律によって正規に認証された登録商標で、十数年来かつてどこからも異議を受けたことがないものである。」(食糧経済新聞・昭和42年1月6、11日)
栄吉の無念の思いが伝わってくる。
「社内報まりん」(平成14年4月1日)の故会長吉村百合子の「思い出話③」にもその辺りの記載がある。「......昭和42年にミルクマリン㈱からマリンフード㈱に社名を変更しました。ミルクマリンという商品名がバターと紛らわしいと言う事で使えなくなり、商品名がフレッシュマリンとなったのですが、それならいっそ社名も変えてしまおうと言う社長の判断でした。でもミルクマリンという名前はとても覚えやすく親しみやすかったようで、多くの方から残念がられたものです。変更はもう30年以上前のことですが、つい最近までタクシーの年配の運転手さんなど、ああミルクマリンさんですね、とよく言われたものでした。と言っても若い人にはピンと来ていないでしょうね。」
第十一期定時株主総会(昭和42年1月1日~12月31日)が昭和43年2月28日に開催されているが、その「営業概況」の中の文章は冷静である。
「......次に本年度の重要事項として、前年度、公取との間に発生したマーガリン表示問題があります。特に当社の場合、登録商標の使用を制限することについては大いに問題がありますが、結局業界の帰結する所に従って、従来長く馴染まれたミルクマリンをフレッシュマリンの名称に変更することといたし、本年9月から逐次実施に移しました。唯最近2、3年来当社の主製品となって参った業務用のツケバターに於いてはミルクマリンの名称に依らなかったため、損害は損害としても致命的でなかったことは幸いでありました。新名称フレッシュマリンについては、その後各種の媒体によって周知徹底を図りつつあります。」
栄吉の作品集「空想屋右三郎」の末尾にある年譜の昭和45年の項目には「『ミルクマリン食品㈱』の社名を『マリンフード㈱』に改名」、と記載されているが、決算書では昭和45年2月24日発行の書類の登記事項の欄で、「昭和44年6月9日 商号ミルクマリン食品会社をマリンフード株式会社に昭和44年5月26日登記」とある。
対外的には昭和42年9月頃から案内を始めたが、登記は2年後となったようだ。
二.十一期~十二期(昭和42年1月1日~昭和51年12月31日)実績表
三.第十一期~第二十期営業報告書
第十一期(昭和42年1月1日~12月31日)第八期で当社唯一の赤字(純利益)を計上してから3年目の第十一期になって、漸くその痛手から脱し、創立以来最高の利益を叩き出した。
「...本年度の総売上金額は、前年度の対前々年度比123%に比し、114%でありました。...幸いにして原料油脂は前年度に比し年間平均ほぼ10%ダウンを見たことと、新開発品に属し返品の少ないハイ・フレッシュマリン系統が純製品中半ばに近くなったことの二点と、並びに人件比の高騰に拘わらず総経費の売上総額に対する比率を前年度並に落ち付け得たために当期経常利益対前年比227.8%(対売上比率7.9%。現在に至るもマリン史上最高)、税引後、純利益に於いて142%に達し、可処分利益1,450万円を計上し得たことは御同慶に耐えぬ次第であります。」
栄吉社長の満足が瞼に浮かぶようだ。経営者冥利につきる瞬間でもあったろう。この時栄吉は66才。余談だが、この時4月、直樹は北海道大学入学のため、大阪駅から札幌へ旅立った。
第十三期(昭和44年1月1日~12月31日)
「...いまふり返って当社の経営指数を見ますと、売り上げ伸びは全体として16.7%であり、経常利益は28.3%の健全型を示し、同期のマーガリンの全国生産増17%と比較しますと、大業者の攻勢にかかわらず、先ず全国平均程度に達し得た訳であります。
売上品種については、前年申し上げました通り、業務用の比率は益々高まって、特に高級品のシェアーは予想の如く70%に達し、学給、チーズ、下請加工とも大体順調に進行しました。併せ労務供給不足は相変わらずで、年中を通じての悩みでありましたが、省力化、配置転換、パートタイマーの制度化等によって、ようやく切り抜けました。」
第十五期(昭和46年1月1日~12月31日)
この年度中に他に栄吉は、青年の時から構想を温め、折に触れて同人誌に発表をしていた「飛鳥の悲唱」(大津皇子の謎)を単行本にまとめると同時に、長崎の先祖である「吉村迂斎」の散文集の二冊を出版している。事業以外の栄吉の仕事の集大成と言っていい。双方共反響は大きく、特に「飛鳥の悲唱」は朝日新聞が読書欄で大きく取り上げてくれた。
第十七期(昭和48年1月1日~12月31日)
「...下半期に入るや否や...世界的に食用油脂の欠乏状態を来たし一挙に大暴騰を演じ...引き続き11月に入ってアラブの石油規制と言う、世界経済を根底からゆさぶる大事態が発生しました。...(売上高は)当社も創業以来の高記録を示し、対前年のマーガリン部門年間数量で120.7%チーズを含めると114.5%となり...即ち年初計画と全く同じ数値である1,111百万円、対前年比124.3%達成致しました。...しかしながら人件費を始めとする...諸経費の急増を見、別表の如き窮屈な決算となりました。」
この頃、直樹はまだ札幌在住であったが、昭和46年12月から翌年4月半ばまで大学を休学し、シベリア経由で欧州放浪の旅に出た。昭和48年9月に栄吉が第一回目の脳溢血による発作で倒れたが、年末には回復した。
第二十期(昭和51年1月1日~12月31日)
「...一般に需要の増加を見、業況は一応順調に推移致しましたとはともかく喜びに耐えぬ次第であります。...当社の販売数量については、対前年実績、自社マーク品 マーガリン(業務用)117% チーズ91% 受託加工品 マーガリン・ラード105% 計110%
チーズのみ低調でありましたが、マーガリンは業界同種品平均を上廻る成績を得ることができました。尚金額的には前年を下廻っていますが、受託品を前年同様に原料含みで計算すれば、本年は対前年122.2%となります。その間原料油脂は安定裡に推移し、...経常利益(過去最高の)74,900千円(対前年192.4%)純利益24,919千円(対前年132.3%)を計上、尚52年度は第一仕上工場の改築、合理化設備導入を企画いたし...8月完成の予定であります。」