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社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130年⑧ 「ミルクマリン初期の努力」(令和2年8月1日号)

取締役社長 吉村 直樹

一.初期の業績













二.第三期営業報告書
「創業御依頼、去る三月末日を以て満三年を経過しましたが、此間社業順調に発展しつつありますことは株主各位の御協力の賜と感謝申し上げる次第であります。創立以来売上が毎年15%~20%の伸長を遂げ、本年度は創業直前(吉村油化学時代)」に比し160%を記録いたしました。この間業界の伸びは134%で当社の好成績を物語っております。
 本年度、業界に於いて合理化カルテルが結成実施された結果、低品位の商品は逐次姿を消しつつあり、社会の信用を高めたこと、又来年以降三ヶ年計画として米国余剰農産物開拓資金と日本マーガリン工業会拠出金額を合わせて大規模な宣伝を行う計画で近い将来総需要に相当の伸びが期待されます。
 併し当社に於いては、かかる外部事情に期待するのみならず、新型品種及び新製品の販売によって営業面の幅を広くする方針で、まず最初に家庭用ラードと給食用ジャムの販売を試み、両品種とも意想外の伸びを見、全社は6種類、後者は7種類の製造に至りました。又、学給用品が著しく増加して重要商品となったことは記録すべき現状でありました。
 当期の原料事情は、貿易自由化の予想などから当分弱化の方向を辿り、採算を有利ならしめ得ると思われます。
 設備投資については、第二仕上工場を新設、燻蒸室・包材倉庫新設、冷蔵室の拡大、研究室の拡張を行いました。又車輌は宣伝車一台、小型三輪車二台を購入し、さらに合理化を進めるためカルトニングマシン一台と自動包装機二~三台の発注を計画中であります。
 更に食品多角経営に進むべく次年度より三ヶ年計画を立案中と申し添えて営業概況報告といたします。」

三.初期の営業活動
故吉村百合子会長のまりん誌「思い出話②」(平成13年12月15日号)である。
 「当時(創業の頃)は家庭用の営業活動が主体でした。派手な宣伝カーで各地を走り回り、宣伝販売の連続です。ミスミルクマリンコンテストもやりましたし、日曜の朝などにテレビ番組にコマーシャルも入れました。息子(現直樹社長)や娘(井上監査役)も広告写真に使ったりしました。
 しかし大企業に対抗して中小企業がテレビコマーシャルをするのは大変な負担です。いつまでもこんなことをしていられません。
 社長は営業部門と連日協議を続け、とうとう家庭用から撤退という結論にたどり着きました。家庭用から撤退し、外食用に販路を変更しよう。
 とは言っても、当時外食は現在のように華やかなものでも規模の大きなものでもありません。隆盛を極めていたのが喫茶店でした。しかも、ここにまだ大手メーカーが手をつけていませんでした。喫茶店にはコーヒーロースターさんが圧倒的な力を持っています。このルートでコーヒーと一緒にマーガリンも売ってもらえるのではないか、と考えたのです。
 当時、代理店はまだ野田喜商事一社だけでした。しかし、コーヒーロースターさんに強い商社(グリーン)さんなど代理店を増やさなければ拡販は望めません。そのために野田社長の御理解が不可欠です。社長は営業部と議論を重ね、野田社長説得を繰り返し、やっとそれを認めて頂くことが出来ました。現在(平成13年頃)の代理店の多くがその時認めて頂いたおかげです。
 勿論社内でも反対が沢山ありました。特に営業部門には強い反発がありました。なぜ家庭用を打切るのか、今までと全然違うルートをやるのか。そして去って行った人もありました。  ともかくも新生ミルクマリンは、学級と外食にターゲットを絞り、動き始めました。そして少しずつ、少しずつお客様の開拓が始まったのでした。」

四.チーズ事業の始まり
それにしても、家庭用から業務用への全面転換というのは、言葉でいうほど簡単なことではない。当然のことながら、家庭用の古いお客さんがついている訳だし、生産ラインも全然違う。
 木次社友の話。「一気に変わった訳ではありません。徐々に、徐々にです。やはり家庭用のお客様からもオーダーがある訳です。そんな時生産は作ってくれましたね。大きな機械は外に放り出していましたけど。」
 家庭用から業務用への転換は昭和36年頃の事だと思われるが、不思議なことに、第4期(昭和35年4月1日~昭和36年3月31日)及び第5期の営業報告書にその事の記載が一切ない。もしかしたら第6期に書かれているのかも知れないが、残念なことに、第6期と第7期の営業報告書だけが紛失してしまっている。決算数値だけは残されていて、通常の成績が示されている。もしかしたら株主に家庭用関係者も多く、記載が惮れたのかも知れない。しかし、売上が大幅に落ち込んだという形跡もなく、そんなに上手くスルっと売上が入れ替わることが出来たのかどうか。七不思議と言っていい。
 また、丁度その時期、後年の売上の主流を占めることになるチーズビジネスが始まった。第5期(昭和36年4月1日~昭和37年3月31日)の営業報告書である。
 「・・・・・一年前より、当社はニュージーランド酪農公団の要請を受け、鋭意研究準備中の所、此度品質、産出量とも世界一と定評ある同国産ナチュラルチーズを輸入しプロセスする技術と設備を導入、昨秋より、工場建設機械の設置も完了、KIWIブランドの下に200グラム(カルトン入)、20グラム(スティック)の二種類を先月末より発売開始したが、幸い多方面より非常な好評を博しておりますので、来季は売上に多大の寄与をなすものと信じます。
 昭和36年に栄吉社長は野沢組の丸山課長(後年NZMP常務)とNZを訪問し、KIWIブランドの使用を認可され、チーズ事業をスタートさせた。これは同業の六甲バターの懇意だった塚本社長がオーストラリアンチーズで成功する様子に刺激され新分野に飛び込んだ。現在本社大会議室に設置されているNZの国鳥キウイの剥製は、その時NZデーリーボートより寄贈されたもので、現在剥製は禁止されているようで、希少品である。」

五.赤字決算
引き続き吉村会長の「思い出話③(平成14年4月1日号)」
「新生ミルクマリンが順調に動き始めた矢先のある朝、起きて外に出てみると、突然工場に赤旗が棚引いてびっくりしました。労働組合が結成されたのです。初代の組合長は、現在(平成14年)の木次専務(元)でした。
 当時は学生運動も激しく、又、労働組合のために中小企業では倒産に追い込また企業も頻繁に出るという時代でした。
 経理の不祥事があったのも丁度この頃でした。或る銀行から頼まれて入社した社員に安心して日常の経理業務を全て任せていたのですが、ある時気が付いたら月末の手形が落とせない不渡りになってしまいました。藪から棒の出来事で、思い余って私と社長が大口の仕入先の社長様の自宅へ出向き、なんとか手形の支払いを延ばして頂く様にお願いし、引き続きその足で銀行に行き、融資をお願いしてようやく月末を越す事が出来ました。
 悪い時には悪い事が重なるものです。現在も同様ですが、前年からの円安で原料高騰が続き、売れば売るほど赤字になりかねない状況に立ち至ったのです。今でいうリストラですが、会社が生き残るために思い切って人員整理、経費節約を断行いたしました。営業の人達の出張は夜行列車、生産部は人員減となりましたが、生産量を落とすこともありませんでした。
 皆悪戦苦闘している間に突如風向きが変わり、為替が円高になりこの時も(赤字)経常を出すことも無く無事決済を終えることができました。」
 この期(8期昭和39年4月1日~12月31日)は9ヶ月の変則決算としたこともあり、営業利益はなんとか黒字を維持出来たが、純損益は赤字決算(△2,244千円)を余儀なくされた。これは当社歴代唯一の赤字となっている。
 それから一年後(昭和41年2月)の月礼朝礼での栄吉社長の挨拶原稿が残っている。 「『冬来たりなば 春遠からじ』
 昨年の二月の朝礼で言ったものの、不安は強かった。併し一面、これだけの者が寄って私心を減じて行くなら、局面を打開出来ぬ筈もないと信じる気持ちの方が強かった。
 六、七月頃から曙光が見えかかったが、それまでに辞めて貰った人もあり、自ら辞める人も相次ぎ、会社の負担は軽くなるのは事実だが、それだけ戦力の落ちるのも事実で、その重みが残った人にかかってくるのも、心の痛むことであった。
 併し子細に計算すると、それでもまだまだ人件費の率は過大であり、とに角経理のバランスを正すのが最低必要な条件であった。
 役員会は意を決してこの問題に取組み、厳しい経費の節減を打ち出したが、その最大のものが9月の希望退職募集であった。
 その結果我々は随分意外な人々も送り、また人の心の量り難さについて学ぶ所も多かった。  残った人々は却って団結した。年初105名の人は一時37~8名にまでなったが、販売活動も製造活動も少しも衰へなかった。本当に驚くべきことです。有りがたい事であった。
 11月、12月になってとにかく一応立直ったと感じることが出来るようになった。
 さて決算した結果は、250万円の利益を計上した。これは僅かであるが、実質は退職金として払ったものが520万円、古機械を売却したことによる帳簿上の損80万円、包装機2台の特別償却100万円その他の臨時的な支出を考えると平常の状態において優に一千万円を超える利益と言うことが出来る。かくして会社の資産状況はある程度良化された。」