取締役社長 吉村 直樹
一. 会社創立前後
前号で昭和二十三年九月にマーガリンの製造が開始されたと書いたが、この頃のマーガリン事業の実情はほとんど残っていない。もしかしたら吉村油化学社内に何等かのノートが存在するかも知れないが、マーガリン事業が独立したことを考えると、その可能性は少ない。
ただ、故吉村百合子会長が平成13~16年に社内報に「思い出話」を書き残している。
昭和二十年秋頃だと思われるが、こんなエピソードがある。「或る日突然『ここ掘れワンワン。花咲かじいさんではないが、大量のドラム缶が今掘り出されている。このドラム缶は豊中の或る油化学工場の物である』というラジオのニュースが流れた。会社に電話を入れると、会社でもニュースを聞いて呆然としている。」
吉村油化学は、戦時中に軍需指定工場として原料は全て配給され油も豊富にあった。そのまま終戦となり、アメリカ軍の上陸によって没収されると噂が拡がり、人夫を集め能勢の山中に油を埋めた。それを人夫が警察に密告した。しかし元々配給品ということで、無断で埋めた罰金刑のみで払い下げられた。
昭和二十三年から製造マーガリンは、統制経済ということで、割当だけ製造すれば全て買い上げてもらえたようだ。
その統制は昭和二十五年に解除となるが、「月島食品工業五十年史」に昭和23年及び24年の認定メーカーが記載されている。昭和24年4月時点で全国の工場数は112、生産能力は30万トン、実質生産量は2万トンとなっている。これは、原料の割当を有利にするために生産能力の誇大化がはびこり、クリーニングドラムが有利であった。
人造バター中央環境審議会の記録で、昭和24年度第2四半期総合成績明細表なるものがある。驚いたことに、吉村油化学は全110社中27位にランキングされている。軍需産業にも指定される吉村又一郎の強い折衝力に依るものではなかっただろうか?
しかしこれも昭和25年の統制解除により、各社実力主義に委ねられた。会社は商品名を「ミルクマリン」とし、学校給食と家庭用に売り出すことを決め、連日マネキン販売に力を入れることになった。
当然販売は保証されず、経費は嵩み、利益は減少を辿ることになる。
二.マーガリン撤退の指示
『昭和28年頃、於三国卓』
昭和三十一年の一月(推定)、百合子会長の「思い出話」である。「一月とても寒い夜に栄吉専務(当時)から『迎えに来る様』に電話がありました。当時の会社は三国本通りの会社から十分くらいの所にありました。首にマフラーを巻き丁度三国橋まで行ったところで専務の姿が見えました。何となく元気がなく、足取りも重く、私を見ても『ア』というだけで先に帰って行きました。
食事もそこそこに自分の部屋に入ったままで、私は何やら胸騒ぎがし後片付けをそそくさに主人の部屋に行きました。
『会社で何かあったんですか』と聞いても返事もなく、ただ何かを考えている様子でした。おおよそ、一時間ぐらい経って重い口が開きました。『今日社長から、マーガリンの製造を辞める。人ばかり多くて利益も出ない。マーガリンで働いている者全員辞めてもらう。ただし専務は残ってよい』と言って東京に帰って行かれたとの事でした。
主人は『自分だけ会社に残ることは出来ない。自分も会社を辞める』と言うと、そのまま床に入ってしまいました。」
栄吉が文学の道を諦め来阪し、吉村油化学の責任者になったのは又一郎の指示であった。統制経済の解除で競争激化に落ち入り、事業の先行きの不安に落ち入ったのも又一郎の見通しの甘さが原因である。この時栄吉に降りかかる火の粉は、甚だ理不尽なものであったろう。
「その夜私は目を閉じているだけで寝つかれず、その内涙がとめどなくいつの間にか、枕を濡らしていました。」
「毎晩話し合ったのですが、いつも行きつ戻りつで一歩も前に進みません。五十坂を超えて幼い子供を抱え。今会社を辞めて此の先は、と考えると夜も眠れぬ日々でした。」
三.ミルクマリン独立を決意
『又一郎と栄吉、於宝塚』
そんな或る晩、時計の「ボンボン」と鳴る音に何を思ったのか私がふと『専務が会社を作れば皆が辞めずにすむ』と口にしました。自分でも何を言っているか分かりませんでした。すると主人が『資金をどうするんだ』と言うと二人共あとの言葉もなく、また向きあっているだけでした。」「しばらく経って、『野田社長様に何もかも話しをしよう。その上で今後のことを考えよう。今マリンを辞める事になれば迷惑を掛けることになる』と主人が言いました。当時販売代理店は野田喜商事(現三菱食品)一社だけでした。昨夜から降っていた雨も上がり、東の窓から薄明りが差し込んでいました。」
「早速野田社長様にお目にかかり一部始終を話しました。野田社長は終始黙っておられ、話が終わっても何かを考えておられました。
『吉村さん、これからはパンの時代ですよ。今は大変だろうが、マーガリンは先が楽しみです。思い切って独立して、マーガリンを続けては』とおっしゃり、続けて『会社で株を持ちますよ。問屋さんにも株主になってもらえば力を入れて売れますよ』と思いもよらぬお言葉を頂戴し、全身に勇気が満ちあふれる思いがいたしました。」
「又一郎社長が来阪されるのを待って、野田社長様が力になって下さる事、マーガリン部門の人達、そして栄吉も辞め、独立することを話しました。そして、マーガリン機械、その他一式を分けて頂く様お願いしましたら、それらは油化学にはいずれも不用なものであるからと心よく了解をいただきました。そしてその代金は株でくれたら良いということになりました。ただし条件として、辞める人の退職金はミルクマリンで引き継ぐ事でした。」
又一郎の事業家の卓越した手腕は、ミヨシ油脂の隆盛、日本証券取引所東京支所への上場(昭和十八年)、二十七年間に及ぶ社長在任等で明らかであるが、一マーガリン事業の将来性についての先見性は、野田喜三郎に一歩譲った。更にマーガリン事業の撤退を決定した上で、従業者の退職金を押しつけ、必然不要になる設備を株式とするなど、その豪腕に栄吉はなす術を持たなかったようだ。当時、繊維油剤部門の賞与はマーガリン部門の数倍だったと聞く。又一郎の逝去は昭和四十五年で、社名を変えマリンフードとなっていたが、この時売上はまだ五億に達していない。
それから八年後にマリンフードの売り上げは、漸く二十億に達し油化学を抜くが、同時に栄吉も他界する。
四.会社設立
『落成式当日、昭和32年9月27日』
「銀行関係も協力して頂く事にトントン拍子で進んでいきました。主人は頭を下げる事の出来ない人でしたが、この時ばかりは毎日のように頭を下げておられました。
こうして昭和三十二年四月一日にミルクマリンは吉村油化学より独立し、主人は社長として第一歩を踏み出しました」。
「社員数は約五十名でした。新工場はまだ姿もなく、油化学の工場内で間借りをしながら、株主様(主に取引先の問屋関係)への説明会や、資金繰り、そして不動産屋さんと土地の物色など、毎日足が棒になるくらい歩き廻りました」。
「やっと今の豊南町の土地を見た時、社長は一も二もなくこの土地に決めました。ここなら油化学で働いてくれている女の人達が、歩いて通勤出来ると考えたからです」。
「決定からの行動は猛スピードでした。三月会社設立、五月土地購入。八月工場完成で生産体制も出来上がりました。同時に私達の自宅も、三国から新工場内に家を建てて引っ越ししました。(結局私たちは工場内の自宅で八年間暮らすことになりました。現在のホットケーキ工場辺りです)」。
「営業以外の人達は全員真っ黒になり、油だらけになって昼夜を問わず、自分達で出来る事は全て会社のために頑張って完成した工場でした」。
「(今現在、当時の社員の中で、只一人残っているのが木次社友です。)九月二七日に落成式が取りおこなわれ、本当にたくさんの方々に出席いただき、各業界来賓の方より身にあまる祝詞を頂き、社長始め社員一同の笑顔を見た時は、まるで夢を見ている様でした」。