1. マリンフードトップ >
  2. 知る・見る・楽しむ >
  3. 社内報マリン >
  4. 創業130周年②「創業」 (平成30年8月1日号)

社内報マリン

マリンフードでは年に3回社内報を発行しています。社内報の一部の記事をご紹介します。

創業130周年②「創業」 (平成30年8月1日号)

取締役社長 吉村 直樹

一、又作幼青年時の苦難
 前回の末尾に又作青年時の苦難は、幕府による長州藩邸の取り壊しに端を発すると記した。
 長州藩邸御用達、吉村年三郎の三男又作が生まれたのは一八五八年だが、その一年半後に父年三郎は病没した。跡目は十五才の長兄為之助が継いだが、年少のため叔父雄五郎が代行した。
 又作には、三人の異母姉(トク、タキ、ヒデ)と二人の異母兄(為之助、年次郎)がいた。母は後妻のチヨで、後年叔父の雄五郎と再婚し異父弟守衛が出来る。
 次兄年次郎が十六才の時長州へ帰郷し、高杉晋作の奇兵隊に入隊したと言われる。その後横浜に出て英語を学び、時をおかず技師として佐渡の金山に行った。
 明治維新の三年前一八六五年に、長州藩邸は幕府方の大村藩に明け渡され、当主為之助は幽囚の身となり、朝敵として唐丸籠で長州送りとなった。
 一家(叔父雄五郎、母チヨ、又作、守衛)は、長州邸を追い出され、市内の町家の二階に身を寄せた。見よう見まねで、米屋、機織り、行商などで糊口を凌ぐ中、明治になって為之助は謹慎を解かれ帰省を許された。
 明治四年に、長州を改名した山口藩庁から、代々の御用達への労をねぎらう退職金二百五拾円(現在の貨幣価値で約千五百万円)を下賜された。しかし、その年の夏、母チヨが四十二才で病没した。続いて明治八年義父雄五郎が五十七歳で突然死、翌明治九年長兄で当主の為之助が三十二才で不帰の客となった。
 又作は、二才に実父を喪い、十才で生家藩邸を失い、十四才で実母を、十八才で叔父の義父を、十九才で長兄の当主を亡くしたことになった。
 又作は、長姉トクの嫁ぎ先が経営する精米所に預けられた。

二.坑夫
 この頃、長崎港外海上十五キロメートルにある高島炭鉱から坑夫の募集があった。時に又作十八歳であったが、精米所に長居する気になれなかった。炭鉱は環境の悪さで爆発事故が絶えなかったが、無断で出奔し募集に応じた。  
 後年、高島炭坑夫虐待問題が明治最大の労働問題として天下の注目を浴びる。
 又作はこの時は早々に無事脱出したが、懲りずに筑前多久炭坑に流れて帳付け等に係わった。しかしこの時も坑夫の大喧嘩に紛れて逃亡、落ち延びてから今度は筑後の三池炭坑に辿り着いた。
 又作は最低限の学は身に付けていたので、その方面で重宝された。養子にと望まれるが、そこで一生を終えることに耐えきれず、再度逃げ出してしまう。
 驚くべきは、またしても高島炭鉱へ舞い戻ったことである。金欠という環境にあったとはいえ、長崎には親類縁者も少なからず達者で、皆又作のことを心配していた。
 二度目の高島炭鉱は、前にも増して厳しい環境であった。再び仲間と二人脱島を試みるが、今度は簡単に捕まってしまう。
 二人は散々打擲され、皆への見せしめに折檻された。両手を前に合わせて親指だけ細麻縄で絡げ、足の指先だけが辛うじて床板に着く程度に梁に吊り下げられ、折れ弓のような棒で容赦なく打据えられ、朝になって梁から降ろされた時は人事不省となっていた。
 それから数日、食事らしい食事は与えられず、眼も見えなくなり、敷蒲団も掛布団も与えられず、終日終夜炉辺に横になっていた。
 到頭ある日、死人が出ると面倒だと、荷物でも扱うように長崎通いの舟の上甲板に積み込まれた。  長崎上陸の様子は、病体の乞食という風であった。又作はとぼとぼと幼少時代の思い出の地に向った。幸いにも又作の保母であった人が健在であり、その家の二階にころがり込んだ。

三.石鹸との出会い
 又作の伯父に当る人で、長崎の漢法医として有名な岡田恒庵と言う人がいる。書家、蔵書家としても有名であった。
 暫く後、又作はこの家に引き取られ、療治を始めることになった。恒庵は「医薬不可分之論」という漢文をものにした人だが、「漢薬」の服用、「塩気」禁断に加えて各種の「食療法」を施し、三週間を転機として衰弱体が回復に向い始めた。
 又作の姉タキの夫で品川九十九と言う義兄がいる。この人は、なんと長州藩邸を明け渡した大村藩の御用達であった。姉タキは敵方に嫁に行ったことになる。九十九の弟は初代上海総領事の品川忠道である。忠道の上海からの提案で、九十九は邸内に蠟燭工場を作ったのだが、又作は保養方々この工場を手伝うことになった。
 又作が化学工業に関係する第一歩であった。
 この間、支那蠟燭製造について、又作は十三章からなる備忘録を筆記している。
 品川家には又作の異母次兄の年次郎が偶然寄宿していた。年次郎は、技術者として佐渡の金山に赴任後、偶然にも三池炭坑に勤務し、病を得てこの時は長崎で療養していた。その年次郎が療養の傍ら工場の片隅で、洋書を読みつつ牛脂とアルカリで化学試験をしていた。それは石鹸の製造であった。
 この時、年次郎二十九才、又作十九才である。又作は石鹸業を一生の仕事とするが、これが初めての出会いであった。
 元来石鹸の歴史は紀元前三千年頃とされ、本邦では千二百年程前の天平時代に遡るという説があり、薬用に使われた時代もある。
 その後年次郎は炭鉱の技術顧問に去り、又作が石鹸の試験を続けることになった。更に新しい知識習得を目的に、品川家より上京の命を受ける。東京では麹町の石鹸工場に勤務することとなった。
 但しこの東京生活は、一年も経たず長崎の工場を支えるために呼び戻されてしまうのだが、在京中、日中は朝早くから工場の現場作業、夜は借室の片隅に作った研究スペースでの実験を深夜まで続けた。
 帰崎後は、又新社と名付けられた石鹸工場の責任者として、文字通り寝食を忘れる環境にあった。あまりの辛さに、上海総領事の品川忠道を頼って渡海したこともあったが、明治十七年まで勤務し、十六年には二十六才で中山ノブと結納を済ませた。
 ノブは又作の妻として七人の男子を生んで、四十八歳で早世した。
 又作は終生自尊心の強い人で独立心に燃え、種々の石鹸工場に関与し、結局長崎を離れることになり、まずは大阪に向う。又作に資金を提供する人もあり、市内西圧辺りの粘土工場内に石鹸工場を建設する。
 その工場が軌道に乗りかけた半年後のある夜、この工場は豪雨によって水没してしまう。又作は命からがら避難したが、半年手塩にかけた工場は放棄せざるを得なかった。取るものも取り敢えず、援助して貰っていた人から舟賃だけを与えられ、又作は神戸から横浜に向う。時に明治十八年であった。
 細々とした人脈を頼りに、オレイン酸の製造、機械組紐の製造に係わったりし、当時東京大学教授から農商務省の参事官に転身した山岡次郎氏に師事する機会を得た。栃木県足利の足利織物講習所で山岡氏の講義の聴講をしたのはこの時であった。
 講義は概ね明治十九年の一月から明治二十年の二月まで六回を数え、各回半月程度足利に滞在していたようである。内容は、又作の講義録によれば、その一「製造記並物質細論記」、その二「染法記及実験録」、その三「配色総論」となっている。
 その中で最も又作を惹きつけたものは、「染法記」の中にしばしば記される「マルセール石鹸」であったろう。又作にとって夢枕にも忘れられぬ「石鹸」の、一つの新しい用途を開くものであった。

四.吉村又作石鹸工場の創設
 長崎を出奔するに際しては又作は三度び品川家と断絶していたが、再度上京してからは交流が復活していた。品川忠道は上海総領事を引いて帰国し、農商務省の商務局長に就任していた。その傍、今の四谷に組紐と石鹸を製造する「藤川工場」を建設した。組紐の責任者はドイツ留学経験のある忠道の娘婿の真で、石鹸の責任者は又作だった。
 この頃又作は、その後の技術面の精神的支柱となる高松豊吉氏の知遇を得ている。氏は当時東京帝国大学の応用化学科の教授で、後年東京瓦斯の社長や東京工業試験所の所長、東京化学会、工業化学会の会長を歴任し、日本の工業化学の元老と呼ばれる人である。
 又作は研究に行詰りを生ずるごとに推参して教示を仰いだ。
 博士八十歳の折「工学博士 高松豊吉伝」が編纂されているが、その中で「吉村又作氏は独立工業者の模範として、賞賛することが出来る。是れも高松博士の指導に基づくもので、多年博士が本邦化学工業発展のために努められた勲功の発露なることが明瞭である」と記されている。
 足利の織物講習所に集まった全国の精錬染色業者は、又作の持参する石鹸製品に次第に期待を抱き始めた。開発への熱意、優れた指導、業者からの期待が揃った。
 又作はうまく波に乗った。新製品は出来た。各地の精錬業者から好結果の報告が、続々と集まり始めた。明治二十年六月に足利織物講習所から証明書が出た。 「貴所製造の絹練石鹸は、練目を滅ぜず頗る光沢を出し、舶来の(マルセール)石鹸に代用し価格は廉にして益々需要の額を増加すべきことを信認せり。」
 この年十一月、長崎の許嫁ノブが上京し二人は結婚式を挙げた。又作三十才、ノブ二十一才であった。
 明治二十一年又作は藤川工場のラベルを作成している。いかにも又作の工場の様で、これを当社の創業としているのであるが、実はこの工場は品川家のものであり又作のものではない。又作の独立と工場の建設(牛込市谷富久町)製造開始は明治二十三年(三十三才)二月十一日を待たねばならない。後来、又作は自己の石鹸事業創始を明治九年に置き、石鹸工場の創立を明治十九年においているが、当社創業の年の見直しが必要かも知れない。       
(栄吉作「吉村又作伝」より)