■ 会社創立の頃
ミルクマリン宣伝カー
さて皆様の社歴などからどうぞ。
木次:私は前身の吉村油化学に昭和30年に入社致しました。当時、研究の仕事をしていた私に先代社長が、新しい会社を立ち上げるということで声をかけてくださったんです。
住田:私は終戦と同時に吉村油化学に入りました。昭和20年になりますね。その後吉村油化学に10年、ミルクマリン(現マリンフード)に10年いました。
皆木:昭和40年に入社しました。ですので、社長のご自宅はまだ会社の敷地内にありました。
吉村:光本会長とは、家族ぐるみでのお付き合いがあったのですか?
光本会長
当時、私の会社では社是を作っていなくて、基本的なものを作るようにと先代社長の指示を奥様から頂きました。その際に社是、企業理念、経営指針を作成しました。
吉村先代社長と吉村会長
(ご自宅にて)
光本:ええ、そうです。会長そして先代社長に相談に乗って頂きました。今の会社があるのは、先代社長、会長を通して色々とご指示頂き、危機を救っていただいたからだと本当に感謝しております。現在でも社是は毎日唱和しております。
吉村:そうなんですか。ありがとうございます。
皆木常務は社長宅で先代の社長や会長とお話をする機会はあったんですか? 皆木:私はほとんどなかったですね。ただ新入社員の時、寮に住んでいたんですが、ちょうど表に会長がおられて、お茶を飲みに来なさいと言われて御自宅に上がったのは覚えています。先輩からどこに行ってたのかと聞かれたので隣でお茶を飲みに行ってましたと言うと、先輩達は驚いてました。
社内で女子社員と |
会社内での飲み会 |
■ 日本酒を友として
伊藤さん
伊藤:私は昭和48年の入社です。
吉村:入社当時、会長としゃべられるような機会はあったんですか?
伊藤:社内の活動で私がたまたま一位を頂いたことがあったんです。それで『よくやったね!』と食事に連れて行って下さったんです。ところが店に入ってみてびっくり。私の兄がやっている店だったんです。
箱根奈良屋旅館にて
伊藤:そうです。その後も、『この間あなたのお兄さんの店に行って食事をしたのよ。』といったことなど何度かお声をかけていただいて、そういったところから会長との思い出が始まったように思います。
私は昭和62年に主人を亡くした時、寂しくてこれ以上仕事をすることは絶対できないと思い、1週間休みをいただいた後に、仕事を辞めさせてほしいとの話をしたところ、お叱りを受けました。『あなたね、旦那さんを亡くしてこれから先どうやって暮らしていくの。家でずっと悲しんでいても仕方ない。仕事をしたら気が紛れるでしょう』とおっしゃいました。
今思うと主人が亡くなった後、何も言われなかったらそのまま会社を辞めていたと思います。会長にお叱りをいただいたおかげで仕事を続けられた、仕事に打ち込んで気も紛れたのだと思います。
吉村:結局今勤続何年ですか?
伊藤:今年の11月で働き出して38年になります。
安永社友
吉村:木次社友は弔辞の中で会議の前に口裏合わせをしたと言っておられましたね。
木次社友
お客様と談笑風景
木次:会議の後はよく誘われて庄内に飲みに行きました。会長は、心の中では反対だけど、私は息子の意見を、社長の意見をとして尊重して従っていたという話をされていました。
吉村:若い息子である社長と古い役員との間をできるだけ取り持とうとしてらしたんですね。
木次:そういった話をする際に『木次さん、一緒に行きましょう。』と誘われて本当に飲むことが多かったんです。
光本:それは私も行かせてもらいました。自分がお世話になった件があってからは本当に大先生ですから。『お正月に従業員を家に呼んだことがあるのか』と言われたこともありまして、それからは倣って、毎年自宅に社員を呼んで正月のお祝いをしていました。
日本舞踊の浴衣会
木次:そうです。先代社長が歌われて、踊られているのを何度も見せていただきました。
吉村:後年は緑内障で目が不自由になって、元気ではあったんですが毎日会社に来るのは難しいということで家におりました。でも何かの会があるとしっかり踊っていました。踊りは最後まで好きでした。
皆木常務
仕事では名古屋から戻ってきて管理部で働いている時に、当時の総務課長と三人で一緒に銀行を回らせて頂きました。今思えば、貴重な体験でしたし身を以て教えて頂けたんだなと思いますね。会議の席では残業が多い事などについて大変お叱りを受けたこともあり大変厳しい面も持っておられました。
■ 裏方に徹して
伊藤:朝礼で3分間スピーチというものがあったんですが、何をしゃべってよいのかわからず頭が真っ白になってしまって、終わった後も自分が何を話したのか全く覚えていませんでした。現吉村社長と井上監査役
会長と二人で飲みに行ったときには、やはり仕事の話が多かったです。時には話が弾んで時間がわからなくなるまでになり、家まで送って頂いたこともありました。たまには仕事の話だけではなく、子供の話なども聞いていただきました。
安永:仕事で私の帰りが遅かった時期がありまして、会長から『いつも帰りが遅いけど、奥さんが家にいないから会社で時間を潰しているんじゃないの?』と心配頂いたことがありました。それで一度帰りに私の家に寄っていただけませんかとお願いをし、女房を紹介して、納得していただいたということがありました。また、ある正月の年始式の時に、社長から羽織袴を着て歌を歌いなさいと言われたことがあるんです。それで大変困っていたんですが、その際、会長が『私が着付けしてあげるから』と。
また、現社長の還暦祝いの際、会長から還暦祝いをしてくださいと直接言われたんです。
吉村:2年前の現社長の60歳の還暦祝いのですか?
安永:そうです。社長自身はそんな還暦祝いなんて好きじゃないとおっしゃっていたんですが、会長が息子の還暦祝いをなんとしてもやりたいとおっしゃっていたんです。会長は『先代が亡くなった後、会社をどうするんだ、誰がやるんだと色々話はあったんです。そして現社長が就任したこの時が、マリンフードの歴史の中で一番の激動だったと思います。』とおっしゃいました。
その時のことやその後就任してからの苦労話も色々お聞きすることができまして、これはなんとしてもお祝いをしないと、と思いました。
吉村:先代の亡くなられたのが4月14日、そして翌月には2代目社長に就任しました。
安永:そうですね、その間に色々とあったとお聞きしましたが、時間としては短かったですね。
吉村:現社長が大阪に戻ってきてまだ間がなかったというのもありますね。でも、会長がどうしても社長を継がせたい、と迎えに行かれたわけですから。
木次:私の一番の思い出は、東京支店勤務の時、話があるからと私の自宅にこられて、朝まで仕事の話をし、お酒を一本半空けたのが印象に残っています。
吉村:夜通ししゃべってらしたんですか?お酒を飲んで。その当時会長は何歳くらいだったんですか?
木次:会長は70代になっていましたね。他にも思い出は本当にたくさんあります。
■ 卒寿に長けて安らかに
光本:先代社長が亡くなられてからは毎日会社にいらっしゃっておりましたので、会長室でよく話しをしました。こと現社長のことに対しては一生懸命で、現社長に関する話はよくお聞きしました。吉村:年齢はおいくつ違うんですか?今光本会長はおいくつでいらっしゃいますか?
光本:82歳になります。
吉村:では8歳差になりますね。お姉さんと弟といった感じですか?
光本:そうですね。私にとっては良いお姉さんという感じでした。
吉村:ご縁が深かったんですね。
光本:ええ、本当にありがたいことでした。
住田会長
吉村:その時に会長も俳句を詠まれたんですか?
住田:ええ、もちろん詠んでおられました。今一句詠ませていただきますと
「白ユリの卒寿に長けて安らかに」
会長のお名前の「百合子」とユリを掛けて、九十歳まで天寿を全うし安らかにお眠りになられたという句です。
吉村:1月18日に倒れてからはずっと意識不明で、家族だけが面会に行くという形で、社員に知らせたのはだいぶ後でした。会社も来年は55周年を迎えることとなりましたが、亡くなられた顔が穏やかで、きれいなお顔でした。安らかに天寿を全うした感じでした。
本日は長時間にわたり本当にありがとうございました。
以上